on a knife edge...

修兵がホテルから女と出てきた、という話を聞いたのは、一護の母親の、命日一週間ほど前、だった。

その時思ったのは、ああまたか、それだけだった。
怒ることも、悲しむことも、どこかが痛むこともなかった。明日の天気を聞いたときのように、頭の片隅に数瞬残り、すぐ消えていった。

仮にも恋人である修兵の、浮気の発覚であるにも関わらず、一護は溜息一つで流した。それだけの反応を見て、その情報を齎した修兵の先輩である乱菊は深々と 溜息を吐き、何やってんのよアイツ、と毒吐いて、気にしない方が良いわよ、と眉を寄せて一護にフォローした。
それには流石に一護も苦笑して、乱菊さんこそ気にしないで、と言ってみせた。実際、乱菊が気に病むほど、大したことではないのだ。


第一、今までにも何度もあった事なのだから。


ちょうど一護の精神が常より不安定な時期であるため修兵のことを考えている暇がなかったと言えばなかったのだが、一護を支配したのは諦観だったことには間違いない。







今は大学院生である修兵は、二年ほど前に一護の高校に教育実習生として来た人だった。
目付きが悪く、威圧感すら感じるのに、顔は整っていてスタイルもいい、そして意外にも、面倒見はよく授業は楽しいと生徒には人気だった。そうかと思えば教師になるつもりはなく、それほどやる気に満ちていた訳でもなかった。
つまり、感覚的には一護たち高校生と近かったのだ。それ故か一護の派手な髪を見ても特にアクションを起こすこともなく逆に、目立って良いな俺も染めようか、などと言い放った。

煩く口を出す訳でもなく、頼ってみせれば面倒だと言わんばかりに目を細め、だがしっかり助けてくれる、そんな風に一対一として扱ってくれる人だった。
一護はその、突き放したような優しさが好きだった。心地好かった。
ちょうど高校に入ったばかりの一護には、修兵の隣が、楽、だったのだ。

だから寄ってきた修兵を許したし、実習期間を終えた後でも何故か連絡をくれる修兵とはよく会った。一護を自分の友人達に紹介し、色々な遊びを教え込んだ。 夜遊びの仕方や酒、それこそ女の扱い方まで。修兵は外見に違わず遊び人で女にモテたし、そして後腐れなく遊ぶのが得意だった。


その頃の子供でも大人でもない一護には、そういう期間が必要だったのだ。自分の中に巣食う空虚さを紛わすために。


それから一年と二ヶ月経った、一護の誕生日に、修兵は一護にキスをした。
そして一護の目を見て確かに言ったのだ。

17歳の子供である一護に、五歳も年上である修兵は、怖いほど真剣な声で。



好きだ、と。










一護はふと窓の外を見た。
夏本番まであと少しといった青空が広がっている。その爽やかさとは裏腹に湿気は物凄いのだろう。夏生まれとはいえ一護も大勢と違わず、じめじめとした空気は嫌いだった。夏はすぐそこに迫り、そして受験準備が本格的に始まろうとしていた。
こういう暑いときは日が暮れてから帰るものだとばかりに、午前だけの授業を終えた一護は、図書館の涼しい一角を占領して勉強に勤しんでいた。
我ながら真面目だと些か呆れもするが、医学部志望を決めた時から進んで机に向かっている。金の掛かる私立より国公立を狙いたい。そんな密かな野望だってあるのだから僅かな空き時間さえ勉強に費やさないと、と一護は思っている。

そうだ、これからが勝負時。夏休み中の努力の結果如何で、冬の本番までの調子も違う。

だから。
だから、修兵に構ってる時間なんてないのだ。二年前の今頃に出会った事を思い出している暇はない。
一護はシャープペンをぐっと握り、途中まで埋めた英語のテキストを片していった。


携帯電話が、ヴーと愛想の欠片もない振動音を奏でたのは、模試の結果が返ってきた日だった。


一護の誕生日の、前日だった。


帰り支度をしていた一護は、携帯を取り出して僅かに眉間の皺を深くする。

「悪い、今日用事できた」

近くにいたチャドにそう言って、一護は学校を出た。西日の強い時間帯に、街中へ向かっている自分が滑稽に思えた。


あと少しで夏休みに入り、その先は只管机に向かうようになるのだろう。たった一つの事に、これほど力を入れる自分も周囲も、そして世の中が可笑しくて堪らなかった。
何故、結果次第でこの先の人生が変わるのだろう。何故、自分はその流れに乗っているのだろう。

医者になるというのは自分の希望だし、知識を得ることは好きだったが、何処か完全に気を入れて取り組めない自分を、一護は自覚していた。カーテン一枚、遮 られているような、そんな曖昧な自分の感覚。それは、高校に入った時と似たような不安定さだ。すぐ隣の人物とは違うものを見ているような、そんな不安、疑 惑。昔も今も、一種妄執のような体で、それは一護に纏わり付いていた。


確かあの時は、・・・そう、修兵だ。

修兵が、自分の足を地に付けさせたのだ。

どうしようもない浮遊感から、救ってくれた。



そんな事を考えながらぼうっと歩いていると、目の前に赤い髪をした男を見つけた。一護をこんな人通りの多い街中へ呼び出した当人。修兵の大学の後輩という 男は一護より三つ上だが、何かと遊びに誘ってくれるような気安い性格をしている。男の幼馴染が一護のクラスメイトであることも含め、一護には近い存在だっ た。

「恋次、」
「おー、黒崎。悪いな呼び出して」
「別に。それより、何なんだ話って。こんな暑い中来たんだ、くだらねえことだったら殴るぞ」
「あー、ほら、こんなトコじゃアレだし、どっか入ろうぜ」

すっ、とさり気なく視線を逸らした恋次に、一護は良い予感がしない。ちらり、と恋次の顔を見て、一護は仕方なく恋次の後ろについていく。赤い髪を一つに 縛っている背の高い男は、こんな人の多い通りでも見失うことは難しい。一護のオレンジ頭と共に人の視線を集めていた。恋次はそれを悠々と無視をして路地裏 のバーに入っていく。
バーと言っても喫茶店のようで洒落たインテリアと明るい照明が落ち着く雰囲気を醸し出している。修兵たちのたまり場のような店で、一護にも馴染みのある所だった。慣れた様子で恋次は奥の席へ向かう。いつもの席だ。そこに向い合せで座る。

「で、何だよ」

さっさと話せと急かす一護に、恋次は苦笑してまあ待て、とばかりにメニューを差し出す。それを受け取らず、一護はいつものショコラに決める。此処のショコ ラは牛乳と砂糖の味しかしない粗悪な飲物ではなく、カカオの風味までしっかり残っていて密かに(しかし公然の)一護のお気に入りだった。今は夏だからアイ スショコラに100円プラスでミントアイスがついて来る。これも一護のお気に入りで、ぱくぱくと満足そうに味わう一護を、よく目の前の恋次と修兵は揶揄し た。
案の定突っ返した一護に少し笑って、恋次は近くにいた少女の容姿をした店員に、自分好みの餡付抹茶フロートを一緒に注文する。相変わらず見かけの鋭さに反 して甘党だ、と一護は恋次の顔を幾分呆れを含んで見やった。店員は、あい、と承諾してすぐに引っ込んだ。ここの店長は風体の怪しげな男だったが、実際店の まかないを担うのは、ゴツイ男で(男だ、男!)、それはもう見かけに反して繊細な味を作り出す素晴らしい腕前の持ち主だ。彼の実直で誠実な仕事ぶりには一 護は惜しげもなく賛美を送っている。

本当にこの店は、とても過ごしやすい筈、なのだが。

今はとてもそうは思えない。理由は当然目の前にいる男の所為。一護の顔をちらちら見やっては、何か言わんと逡巡して溜息を吐く。一体何処の乙女だお前は、 とど突きたくなるのを抑えて、恋次を睨んでやる。それにうっと詰まった男は、覚悟を決めたようにこちらに向き直った。

「明日、オマエの誕生日だよな?」
「あ?・・・そうだけど」
「それで、だ」

ほれ、と小さな袋を一護に投げて寄越した。とっさに受け取って、しげしげとそれを眺めてみる。何の変哲もないと思われたそれは、一護の好きなショップのも のだった。シルバーアクセを中心に手作りのものを売っている店で、ファッションの嗜好が合う恋次とよく訪れる場所のひとつだ。

「何だこれ」
「何って・・・プレゼント以外のなにものでもねーよ」
「ふーん・・・お前が買ったんか?」
「当たり前だろーが!幾ら貧乏っつってもソレくらい自分の金で買えるわ!」

熱り立つ恋次は、見かけによらず律儀だった。一護はしばらく手の中で持て余し、小さな声で礼を言った。何となく普段ふざけあっている恋次から物を貰うのは照れ臭い気がした。それは恋次も同じようで、ぞんざいな返答をしてそっぽを向く。
しかし、用というのはコレだけなのだろうか、と一護は釈然としない。首を傾げていると、携帯の音が鳴った。一護のものではない。

「恋次の?」
「ん。あ、乱菊さん講義終わったってさ。すぐここに着くだろ」
「・・・乱菊さん?ここに来んの?」
「・・・そー」
「何でまた」
「あー・・・ほらさ、」

気まずいように視線を散らす恋次に、やはり別の本題があったわけだと納得する。
わざわざ呼び出して一護から聞き出すような話といえば当然、あの事しかなくて。溜息を飲み込んで、一護は重い口を開いた。

「・・・檜佐木さんのことか?」
「・・・そー。自分が言っちまったって、あの人なんか心配らしくてさ。」
「別に、乱菊さんが気に病むことじゃねえのに・・・」
「もう浮気は許してやったのか?」
「つーかさ、・・・・」

初めてじゃねえんだよ。
渋い表情で吐かれた言葉に、恋次は呆然として気の抜けた顔を晒した。

「え、・・・何だって?」
「だから、檜佐木さんが浮気すんのは一度や二度じゃねえの。この一年で何度かあったんだよ!」
「マジか・・・?」
「こんなことで嘘言ってそうすんだよ・・・」

げ、何やってんだあの人・・・と呆れやら怒りやらを含めた恋次の呟きに、一護は何も返せない。そんなこと、こちらが聞きたい。

「お前、それ黙って許してんの?」
「まさか。んなわけねーだろ。きっちり仕返ししてらぁ」
「・・・何やったんだ?もしかして、浮気し返したとか?」
「・・・・・・」
「げ、マジかよ!うわー・・・」

がっくりと落ち込む恋次の反応が分からない。
そもそも浮気をしたのは向こうで、その時の一護は当然ショックだったわけで。報復としては妥当だと思うのだが。

「因みに聞くが、誰だ?女か?・・・違えよな、お前フェミニストだし。ってことは何か?男ってか!」

恋次はうわーうわー!と叫んだ。聞きたくないことを聞いてしまったかのように、頭を抱えている。
常に空いている店内に他の客の姿は見えないが、流石にこうも近くで叫ばれると煩い。一護は皺を深くして睨んだが、逆に恋次に恨めしそうな顔をされて、う、と詰まった。

「な、何だよ別に誰か傷つけたとかそんな事してねえぞ?」
「馬鹿ヤロウ!そういう問題じゃねえ!」

一護のあまりの見当違いの言葉に、恋次は喚いた。

女だったらまだ良い。いや、良くはないが自業自得で通るだろう。
だが、男だ。一護がそこらにいる男に声を掛けるとは考えにくい。
つまり、絶対顔見知りだ。恐らく自分もあの人も。

「お前なー・・・・・寝たのか?」
「・・・・」
「うわ、お前、マジかよ・・・」

恋次は出会った頃は16歳のガキだった一護の顔を呆然と眺めた。
気が強いがそれでも真っ直ぐな性格をしている一護だったが、何事にも拘らないという長所のような短所があった。
軽い仕返しのつもりで、浮気、という考えはなかったのかもしれない。

「つーか・・・お前ら、」

なにやってんだ・・・・と、下唇を突き出した不機嫌な顔をしている一護の顔を見ながら、その恋人である(筈の)男の顔を思い浮かべる。頭を抱えて唸る。
そんな恋次の向こう側にある店の扉が開き、スタイルのいい女性が入ってきた。乱菊だった。

「一護!」
「あ、乱菊さん。お久しぶりです」
「待ってました乱菊さん!もー駄目っす!助けてください・・・!」

どーも、と軽く手を上げた一護といきなり身を乗り出して訴えかける恋次の格差に、乱菊はその艶やかな貌を歪めた。


嫌な感じねえ・・・

柳眉を寄せながら、それでも乱菊は恋次の隣へ座った。

「なに、アンタ達、・・・どうかした?」
「もー俺にはどうすることも出来ません・・・」
「は?何?もしかして別れたの?!」

恋次の些か情けない表情に、自分の蒔いた種が大きく育っちゃった?と、乱菊は慌てた。
修兵が女とホテルから出てきた、と言ったは乱菊の友人だったが、乱菊自身は半信半疑であった。それを一護に伝えたのはあの生意気な後輩が少しは困れば良いという揶揄からであった為に、余計に責任を感じる。
だが、一護は何ら平常と変わりない。

「ちょっと一護ー、説明しなさいよ」
「別れてないです。別に揉めてもいません」
「つーか、それ以前の問題だっ!」
「何でお前はそんなに凹んでんだよ!」

わあわあと言い争う二人をテーブルに沈めて。
かくかくしかじか。これこれうんぬん・・・・・。

「あらあ・・・アンタ、やるわね」
「そうか?」
「らーんーぎーくーさーん・・・・・」

感心したように瞠目して一護の頭を撫でた乱菊に、恋次はまたしてもテーブルに沈む。追い討ちをかけられたような気がする。凹む恋次を横目に、二人の会話はどんどん進む。

「でも、そんな事してアイツ怒らなかった?」
「怒った。滅茶苦茶」
「やっぱりねー」
「あの人キレると怖いよなー」
「なになに?どうなった訳?」





「一週間くらい監禁された」